大竹誠さん寄稿

木住野利明「不思議な神々」展を見て

 

 夜中に金縛りにあうことがある。得体の知れない何者かが足を抑えてくる。外そうと身悶えるのだがどうしようもない。苦し紛れに「エイッ!」と手を動かしたら振りほどけた。抑えるものの姿はボ〜としたもので顔も闇のようだ。少女だったこともあった。何者かに取り憑かれたのか。

 

 木住野さんは「神々」を手がける時に、具体的な形が見えているわけではないという。こうしたいとか思わなくても、どこからか何者かが降りてきて、手を動かしてくれるらしい。棟方志功もそのようなことを言っていたし、何人ものアーティストもそのように言う。「何者かに突き動かされてできてしまう作品」があるわけだ。

 

 「森の小屋」での「神々」は、三尺角の敷台や机、階段手摺子の隙間などに鎮座。やおろずの神々らしくその数90体と賑々しい。「頭八咫烏」もいる。そう、神々がいるわけだ。神々のヒットパレードのようだ。「頭八咫烏」は「カルラ」(巨鳥)であり、「ガルダ」「ガルーダ」(烏天狗)である。木住野さんは、アイヌのシャーマンから「あなたは烏天狗」だと言われたとか。得体のしれない、説明のできないシャーマンの活動。この世とあの世を行き来して、何かを感じて、それを言葉にしたりする。そのシャーマンが木住野さんに「烏天狗」が乗り移っていると見えた。

  「不思議な神々」は、烏天狗の木住野さんが手がけたものなのだ。それだけにそれぞれ不思議な力が宿っているように見える。怖そうでもあるが、人形だから当たり前。どれも凛として立っている。格好がいい。目を見開いて正面を向く。手を合わせる祈る神もいる。千手観音のように手の多いもの、いくつもの顔のあるもの。髪がおっ立つのもの、鶏冠のあるもの。多彩な色に多彩な布。目玉をいくつも纏うもの。般若心経を纏うもの、細かな点々点々を纏うもの、などなど自由自在だ。「神々」が多彩な色を呼び寄せ、般若経を呼び寄せたのだろう。

「森の小屋」の空間は広くはない。「神々」は少し窮屈か。広いベランダに並べてみようとみんなで「神々」を移動した。午後の暖かな日差しが降り注ぐベランダ。並べて見ると、「神々」の表情が変化した。日を浴びて喜んでいるのだ。晴れ晴れとしている。「神々」も表の空気が気に入ったのか。自然と会話を始めたのではないか。舞台のフィナーレのような盛り上がり。手を繋いで「みなさんありがとう。感謝します。」というような感じに。「神々」手に抱えての移動は、なんだか嬉しくなる。大きな数珠を回しながら念仏を唱えるように、「神々」を輪になって回してゆくなんて霊験あらたか。

 

 午後の西日に照らされた「神々」の姿を見ているうちに、私にも何かが降ってきた。周りは樹木が生い茂る。その樹木と「神々」が一緒のように感じられた。樹木の枝が伸び広がるように「神々」は手を広げ体をくねらせている。樹木の木肌のように「神々」は、多彩な色で化粧され、布を纏っている。花におしべめしべがあるように「神々」にもおしべめしべがある。花粉があるように「神々」には花粉のような凸凹がある。花粉は生命をリレーしてゆく。「神々」も体の凸凹を介して命をリレーしてゆく。イザナギは自分の身体の一部を取り出しイザナミを産んだ。生命のリレーだった。樹木の木肌が、木の実が、花粉が、根茎が次の命を産んでゆく。樹木は聖なるもの。神々が宿るもの。神々が宿る樹木と飛来するガルーダ(烏天狗)。

 

 樹木もコミュニケーションするという。互いに日差しをシェアーし、地中の中で養分をシェアーしている。「神々」も実はシェアーしているのだ。異なる「神々」のシェアーする会話が聞こえてきた。いや〜興奮してきた。木住野さんの「神々」が、誰かさんの家に持ってゆかれた。。一体一体は離れ離れとなり、さみしい思いをしているかも知れない。でも、樹木の根が話し合うように、樹木の葉がさわさわと音をだすように、「神々」も根を張って、さわさわと話し合いが始まっているのかもしれない。

 

 その時、周りの樹冠からカラスの意鳴き声。「カア〜カア〜カア〜」。カラスにも「神々」は目に止まった。(2018年11月29日 おおたけまこと)