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大竹誠さんより「森洋子カルタ展」の批評をいただきました


森洋子「カルタ展」を見て 大竹誠

 案内状に書かれているように600枚ものカルタが並んでいる。「人間ばかりでなく、動物や昆虫、爬虫類や植物」が童話のように、そして時にはグロテスクに、鳥獣戯画とか狂画のように、小さなカルタとして、モノクロームであるいはカラフルに描かれていた。

 その何れもがいわば「絵文字」のように見えた。身体の癖であったり、特徴、あるいは身体の部位を極端にデフォルメし、それらが「言葉=ことば=コトバ」を発している。というような「カルタ絵」なのだ。花札には「猪鹿蝶」「花見で一杯」「鶴に松」などおめでたい話があるけれど、森さんの「カルタ絵」も、おめでたく、ワクワクするお話が、お伽話が描かれている。

 生き物は、常に変容していて生きている。生きることすなわち変容なのだが、カルタに描かれた変容する身体を通して、生きることの、あるいは生きていることの不思議さを感じてしまった。

 「こんな表情の私がいたよな」「好きになると身体はこんな具合にフニャフニャになるよな」「虫だって驚きの眼をするよな」「夢の中で足がグーンと伸びたよな」「肩がこると背中が倍になったような感じになったよな」などなど。案内状に「人間カルテ・・・心模様の標本200種」とあるのはそのことでした。「カルテ」は診療簿、病床歴ですね。だから200人分のカルテでもある。全てが私の病歴でもあるし、見ていると、そうだよな我々はこんなに豊かな表情を持っているんだなと思う。同時に、その細やかな表情(心模様)を隠して生きてきたということに思いあたる。

「いろはにほへと」「ABCDEFG」(アルファベット)の人体カルタもある。単に人体で文字を描いただけではなく、その一文字、一文字が、人間カルテでもあるところが見事。おちんちんも下がる文字を見つけてニヤリとしてしまった。

 体に無駄なものはないんです。隠してはいけないのです・・・。「いろはにほへと」も「ABCDEFG」もいわば意味のない記号。だけれどもカルタを見ていると、その記号が突如、象形文字のように意味を抱き始める。「い」だけでは意味がなくても、声を出して(身体を使って)、「い〜〜」「いいいい」「い!!」と言えば、「い」が変容して異なる意味性(表情)が出ちゃいます。カルタはそんなバリエーションを教えてくれるのです。

 昆虫のカルタもある。標本のようだ。昆虫採集を夢中でやり、見よう見まねで昆虫をピンで止め、名札をカードに書いたことを思い出した。森さんは、文字通り「夢中=夢虫」で描いている。その「夢虫=夢中」さが森さんの「カルタ=カルテ」を生み出したのかもしれない。「虫」になって身体のことを考えてみようと。

  昆虫の体ほど不思議なものはないけれど、その触覚や体にはおびただしい数の凸凹がある。全て生きるための装置です。ならばと、「いろはにほへと」も、「アルファベット」も、あちこちに触覚やら足やらの突起が出て当然。納得できました。

 江戸時代には、庶民の遊びとして「絵文字」とか「紋切り型」とかあった。「絵文字」は、誰もが知っている身体の部位や表情を絵にして、それらを組み合わせコトバに見立てるあそび。  

 「???」。「アッ!そうか」となる。文字を学んでいなくても、コトバが理解できる仕掛け。「紋切り型」は、折り紙に「型紙」を当てて切り抜いて、広げると「家紋」が現れる。「抱き茗荷」「コウモリ」「すずらん」など膨大な「図柄」を生みだす遊び。

 

 森さんは「カルタ遊び」という世界を開きだしたのでしょうね。「朝起きて何やら首が回らない」・・・と読み手。「ハイ!」とカルタに指先で触れる。誰かこれを複製して、使えるカルタにしてくれませんか。